第6回 量子通信のこれまでとこれからのプレイヤー
<目次>
・量子通信・量子暗号・量子中継・量子ネットワークによる暗号通信の技術動向と活用
・世界の量子通信関連技術研究の開発動向
―技術領域別グラント額(推計)の年推移
―技術領域別世界研究費推計国別ランキング
―量子通信・量子暗号・量子中継・量子ネットワーク全体のグラント資金流入額機関 世界上位5大学
―日本国内のグラント資金流入額上位5研究
・量子通信・量子暗号・量子中継・量子ネットワーク技術分野別研究開発動向
(1)地上通信技術
(2)衛星通信技術
(3)量子通信技術
・出願済み特許に見る各国の技術動向
量子通信・量子暗号・量子中継・量子ネットワークによる暗号通信の技術動向と活用
量子暗号の安全性の根拠は量子力学という物理法則によるところであり、量子力学に反する事象が発生しない限りは保持される物理学的に堅牢な構造を有しています。量子暗号とは鍵(乱数)を安全に送信し共有する仕組みですが、その際、この鍵を運ぶための媒体が量子であることに定義されます。この量子とはすなわち極端に弱めた光(光子)で、それをランダムに変調して光ファイバーのような通信伝送路を通して送受信します。従っておおよその量子通信は光通信と近似した構成によりなされますが、光子が途中で盗聴・傍受された場合、量子の性質に変化が起こり、その変化を観測することで盗聴・傍受を瞬時に検出することができ、盗聴・傍受には堅牢性が高いとされます。
量子暗号が実装された世界初のプロトコルは1984年に提案されたBennett-Brassard 1984 (BB84) 方式です。理論研究は、当初はIBMやOxford大学等で進められ、一方国内ではNTTが早くから研究に着手し、その後NECや三菱電機、通信総合研究所(現 情報通信研究機構(NICT))などで研究開発が進められました。実験・実装については、IBM, ロスアラモス国立研究所、John Hopkins大学、ブリティッシュテレコム (BT)、Geneva大学、Oxford大学など、国内では産業技術総合研究所、三菱電機、NEC、学習院大学、北海道大学などでデータ処理も含めた量子暗号のシステム化も含めて研究開発が進められています。
一方で、量子通信のもう一つの特徴は、「量子シャノン理論」を実装する通信技術であり、これは情報理論におけるシャノン理論を量子確率論に拡張したものです。つまり、従来の通信におけるデータ圧縮を考えると、0と1という2つの状態をデジタル情報として送信しますが、量子通信では量子を用いるため、0と1の重ね合わせ状態を形成し、その重ね合わせ(複素数の位相)を壊さずに情報を圧縮して転送する技術となり、大容量のデータ送信技術としても注目されています。この特徴技術は上記の量子暗号技術と一見無関係のように見えますが、実はこの理論は量子暗号や量子計算の理論的な基礎になっています。
世界の量子通信関連技術の研究開発動向
量子ネットワーク分野の研究開発については、特に近年に世界各国で大きな進展が見られています。まず量子情報技術の中でも量子ネットワークに注力して集中的な研究開発投資を行っている中国では、近年、地上・宇宙両面での通信インフラで存在感が大きくなっています。2016年までに上海・合肥・洛南・北京の4都市間全長2000kmのネットワークを構築し、2017年には世界初の衛星地上間での量子鍵配送実験(距離1200km、1kbps)に成功したことが報告され、世界中の研究者を驚かせました。また2018年3月には、世界最大の量子暗号ネットワークを構築したことが報道され、新華社通信、中国工商銀行、国家電網公司などが利用していると言われています。
これに対し、欧州では量子情報技術全般について大きな研究開発投資を進めている状況にあり、特に量子暗号・通信分野については、大手通信キャリアを中心にして実用化に向けた動きが加速しています。英国British Telecomが同国初の量子暗号通信網をCambridge-Ipswich間に構築し、テレフォニカ/ファーウェイ/マドリード工科⼤学が既存商用光通信網での運用実証試験を開始し、またドイツテレコムの実証通信網にSK Telecom/IDQがシステムを提供して2019年商用網へ拡張するなど実証検討の報告が相次いでいます。
量子情報技術の中で量子コンピュータに多くの予算を投入する米国は、量子ネットワークの分野では中国・欧州に比較して存在感が小さいと言われていますが、2018年、Quantum Xchangeが同国初の量子暗号サービスを発表し、トランプ政権下で研究投資も急速に増加させています。また隣国の韓国では、実用化を視野に国主導で通信キャリアが実証試験を進めており、SK Telecomが、2018年にスイスのid Quantique社へ$65Mを投資して自社R&D部門と統合し、量子暗号システムの研究開発を推進しています。
一方、我が国においては、2010年からNICTを中心に量子暗号ネットワークテストベッドの構築に関する研究開発が実施され、次いでImPACT「量子セキュアネットワークプロジェクト」にて、都市圏QKDネットワークが実証されました。2018年度からは内閣府の戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)「光・量子を活用したSociety5.0 実現化技術」において、量子暗号と秘密分散を統合した社会実装に取り組んでいます。
世界の量子通信・量子暗号・量子中継・量子ネットワークに関連する研究投資(グラント)は、2009年以降の積算値で順調に伸びています。量子ネットワークにおける研究領域は、大きく「地上通信」「衛星通信」「要素技術」の3分野に大別されます。「地上通信」については、現状「実用化」が主要テーマであると言えます。例えば英国で「Quantum Communications Hub」を牽引するYork大学のプロジェクトにおけるミッションには、「政府や商業から消費者や家庭に至るまで、広く利用され、採用されることを可能にする新しい量子通信技術を開発すること」とあり、「実用化」がキーテーマであることが伺えます。また中国においても量子中継技術の開発により500 kmを超える長距離量子通信を目指した研究開発が中国科技大を中心に進められています。
「衛星通信」については、2017年に中国が世界に先駆けて人工衛星「墨子号」による大規模量子暗号通信の実証実験に成功して以来、米国でも研究開発投資が一気に拡充され現在では、最も大きな研究資金を投入しています。日本でも同年にNICT(情報通信研究機構)が低軌道衛星と地上局間での実証実験に成功し、2030年を目途に、衛星網と地上網を統合、および量子セキュリティインフラのグローバル化へ向けた研究開発が進められています。
「要素技術」については、量子ネットワーク技術の社会実装において根幹となる量子中継技術(量子メモリ・量子もつれ等)に関して、長距離伝送の実証や多重化・集積化・大規模化等が課題として設定され、長期的視点での研究開発が進行しています。
技術領域別グラント額(推計)の年推移
技術領域別世界研究費推計国別ランキング
光量子生成とセンシングおよび効率的な中継器技術の進展が技術領域のキー
世界の研究資金(グラント)において、量子通信・量子暗号・量子中継・量子ネットワーク全体1230テーマでは、まず技術領域別グラント額については3つの研究領域全てにおいて増加傾向にあります。特に2014年以降は増加傾向がより大きくなっています。
技術領域別世界研究費推計ランキングについては英国が1位の座にあります。グラント資金流入額機関世界上位5大学においても、同国からは5大学中2つを占めています。York大学がけん引する量子ネットワークに関する「Quantum Communications Hub」においては、特に「量子暗号鍵配送(QKD)」、「小型・低コストデバイス開発、チップスケール統合」、「モバイルバンキングなどが最初の応用ターゲット」、「量子ネットワークテストベッド構築」を主要な研究テーマと位置付けられています。世界研究費推計ランキング2位は中国であり、同国の研究の中心は中国科学技術大学です。同大学は、済南量子技術研究院、中国科学院上海マイクロシステム・情報技術研究所との共同研究において、延長50キロメートルの光ファイバーで繋げた2台の量子記憶措置の間で量子もつれを実現し、量子中継によって量子ネットワークを築くための基礎研究を実施したと報告されています。ランキング3以下は米国、オーストラリア、日本と続きます。
日本の研究250テーマを対象にした科研費の上位については、大阪大学が2件を占め、他、北海道大学、名古屋大学、埼玉大学が名を連ねています。研究分野としては、理論や実証的研究と併せ、量子中継への応用が見込まれる冷却原子量子メモリや量子もつれに関する研究が見られます。大阪大学産業科学研究所の大岩顕教授の研究グループは、量子暗号や量子ネットワークをファイバー網で実現するため、量子通信を長距離化する量子中継技術の研究開発を推進しています。
日本国内のグラント資金流入額上位研究
量子通信・量子ネットワーク技術分野別研究開発動向
量子通信・量子ネットワーク技術領域の主要3領域である、(1)地上通信技術、(2)衛星通信技術、(3)量子通信要素技術についてのグローバルでの投資額上位の研究課題を示しています。既に、上記の研究センター・研究ハブの設置の中には、網羅的にこれらの課題を包括しているものがおおく、上位としてリストアップされているものについては課題の内容は割愛しているが、これらから各領域における規模の大きな研究領域が把握できます。
(1)「地上通信技術」グラント資金流入上位5研究内容
日本では、地上通信においてNICT と国内メーカは欧州電気通信標準化機構(ETSI)や国際電気通信連合(ITU)において標準化活動を推進して世界を先導しており、また量子通信の長距離化を目的とした量子中継技術についても原理実証を進めており、この技術領域で世界を先導する技術力を有し、中心的技術になりうる可能性があり、日本の光通信関連機器プレイヤーも幅広く貢献できる可能性があります。
(2)「衛星通信技術」グラント資金流入上位5研究内容
日本では総務省プロジェクト「衛星通信における量子暗号技術の研究開発」において、2018年より衛星量子通信を利用した大陸間量子暗号通信の実証が進められており、NESTRA、SONYコンピュータサイエンス研究所、スカパーJSAT、NICT、東大が参画しており、広く衛星通信技術を含め今後の社会実装や産業への貢献が期待されます。
(3)「量子通信要素技術」グラント資金流入上位5研究内容
日本においても東京大樽茶教授、松尾助教らの研究グループでは、量子通信の中継器への応用も見込まれる、光子対の量子もつれ相関を光子と電子スピンの対への転写を実証する研究に取り組んでいるなど、世界的にも先進的な研究事例も見られ、元来つよいオプティクス領域のプレイヤーは今後世界を牽引する研究成果に貢献することが期待されます。
出願済み特許に見る各国の技術動向
以下に「量子センシング・量子センサー全体」の特許出願動向について、関連特許56か国、WO、EPでの出願特許、2140件より集計した結果を、出願数上位の国および機関(グローバル)について示しました。
出願人・譲受人の国としては、中国からの出願が圧倒的に多い状況にあり、特に2016年からの増加が著しい状況にあります。これは、同国における科学技術基本政策「国家中長期科学技術発展計画綱要2006~2020年」にて重大科学研究4項目の一つとして「量子制御」が位置づけられ、また「科学技術イノベーション第13次五カ年計画(2016年)」の重点分野として量子通信と量子コンピュータを重大科学技術プロジェクトとして位置付けられたことに起因すると推察されます。一方、我が国の件数は2位で、3位の米国を凌駕しており善戦していると言えます。我が国においては、2000年辺りから量子暗号通信の研究が継続的に取り組まれ、現在においてもNICTを中心として東芝、NEC、三菱電機といった電機メーカと密な連携に基づく研究開発が進められている状況が奏功していると推察されます。結果として、量子コンピュータ分野で米国に大きく水をあけられている現状においても、量子暗号通信分野においては中国・米国・欧州諸国と遜色ない位置にあると言えます。
出願先国については、量子コンピュータ分野同様に、中国は自国出願、他の国は自国と共に、米国他他国出願が多いという傾向にあります。
世界の特許出願状況
世界の特許出願動向
特許件数においても、日本企業は非常に健闘している状況であり、全体上位4社を東芝、NEC、三菱電機、NTTが占めており、大学・研究所ランキングとしてもJSTが1位の座にあります。東芝に関しては、量子暗号鍵配布通信システムに関する特許を中心としており、信号パルス強度制御、エンコード・デコード処理、光子検出器等システム全体の実装に係る特許が出願されている。NECも東芝同様に量子鍵配送システムの実装全般に関する出願が多数を占め、併せて、銀行間取引等のアプリケーション層を含めた出願特許も見られます。三菱電機の出願は光子検出装置、光パルス制御等含めた量子暗号装置関連が中心となっています。また同社は量子暗号の理論解析にも強みを持っており、誤り訂正符号/アルゴリズムに関する特許も出願されています。IBMは量子コンピュータの要素技術を中心として量子暗号通信でも活用される超電導チップ・超電導回路等の出願特許が中心となっています。
「量子通信・量子暗号・量子中継・量子ネットワーク全体」特許出願上位
また、そのうちの主要出願である、日本、米国、欧州(EP)、WO(PCT)、での特許公報979件を対象に、特許の被引用履歴に基づいたアスタミューゼ独自のスコアリングを行い、上位特許を保有する企業・大学・研究機関のランキングを示しました。この領域では、Chunghwa telecom社が最上位スコアの特許を保有しており、量子暗号サービスネットワークにおけるイーサネット・インタフェース、ユニバーサル同期バスインタフェースとRS232インターフェースを備えたキーチャネルの暗号化に関する内容となっています。Global foundries社は、量子コンピューティングでの基盤技術となる超伝導体に関するスコア上位の特許を保有しており、当該特許は量子中継器に活用されるものであり、今後の量子暗号通信の基盤を成す中核特許を保有していると言えます。またTriad nat security社はスコア上位の13件の特許を保有しており、内容もモバイルデバイスのための量子通信デバイス、量子通信認証のためのユーザデバイス、自由空間光通信のための量子通信システムなど多岐にわたり、将来の中心的プレイヤーになる可能性が高いと考えられます。量子計算機で有名なD-wave社は、超電導量子プロセッサ等の量子コンピューティング関連技術を保有しており、量子中継器にて展開できる可能性から量子ネットワーク分野でも同社の今後の動向は注目すべきです。
量子通信・量子暗号・量子中継・量子ネットワークの分野においては、主要な研究開発プロジェクトは英国や中国を中心とした機関によって先導されています。一方で国内においても、量子メモリ・量子もつれ等要素技術に関する研究や、衛星-地上間量子通信に関する実証実験など、先進的なプロジェクトが進行し、特にNICTのリーダーシップの下、各電機メーカが連携して研究に当たっており、欧州電気通信標準化機構(ETSI)や国際電気通信連合(ITU)においても標準化活動を推進し世界を先導しています。今後我が国の量子暗号・量子通信研究としては、長距離化に必須である量子中継、特に量子もつれスワッピング、量子メモリ、ダイヤモンドNV センタ等の要素技術分野での更なる研究開発力強化を図ると共に、量子通信・量子暗号の技術体系だけを深めるのみならず、情報理論・フォトニックネットワーク技術・ワイヤレスネットワーク技術等の周辺分野との融合を進めていくことにより、新たな通信技術体系を構築・構想していくことが重要になると考えます。
(アスタミューゼ㈱テクノロジーインテリジェンス部 川口伸明、米谷真人、*千葉英利)