脳内の感情や記憶を擬人化したファンタジーながら、少女の心の成長と家族の絆を描いた実は感動的ヒューマンドラマ。記憶の回想シーンや夢の生成シーンは、ディズニー/ピクサーならではの発想と演出。脳神経科学や心理学の知見に基づく様々な描写も興味深い。
(以下、トレーラから想像できる程度のネタバレ+脳科学的解説)
1. 5つの感情たち
感情(feeling)には本人にしか分からない主観的な部分と、表情や行動、心拍数や血糖値、神経電位の変化、脳イメージング(PETやfMRI)などで外部から観測可能な部分とがある。科学的研究対象となるのは後者で、脳科学や心理学では、感情の下位概念として、情動(emotion)という言葉が用いられる。本作ではヒトの基本的情動として、喜び、悲しみ、怒り、嫌悪、怖れの5つがフィーチャーされているが、心理学でいう主要な情動としては、もう一つ、「驚き」がある。ただ、驚きの主な機能は怖れと同様、危険や不意の出来事からの防御と考えられるので、本作では「オドロキ」の登場はなかった模様。
2. 体験を感情評価する指令本部=大脳辺縁系の扁桃体
ライリーの体験するものを次々に、5つの感情が、「これは私の担当」などと言いながら処理していく様子が描かれている。これはまさに扁桃体(へんとうたい)における価値評価の場面。
扁桃体は大脳内側面上にある大脳辺縁系という構造の前端、眼窩の後方に存在するアーモンドのような形の器官で、ここには、味覚、嗅覚、内臓感覚、聴覚、視覚、体性感覚などあらゆる感覚刺激が入ってくる。また、外部刺激を大脳皮質が瞬間的に情動判断した暫定情報や、海馬に蓄えられた新しい短期記憶も扁桃体に入ってくる。扁桃体はこれらを、大脳皮質の各領域に蓄えられた長期記憶と照合しながら、詳しく情動判断していく。
見た瞬間に大脳皮質が一次的に恐怖と感じた映像情報も、扁桃体で再評価すると、かつて見たことのある安全な場面と同様と判断し、安堵感を抱く場合もある。この場合、暫定的情動が訂正され、書き換えられたものが短期記憶に入る。また、過去の楽しかった思い出の中で流れていた音楽を聴くと、忘れかけていた記憶が甦り、その記憶が増強されるのも、扁桃体の作用だ。
3. 新しい感情記憶を一時貯蔵する棚=大脳辺縁系の海馬
映画の中で司令部の後方に見える長いチューブ。思い出を詰め込んだ透明な球体(メモリーオーブ)がたくさん連なっている。球体一つ一つが短期記憶であり、長いチューブが海馬だ。短期記憶は概ね数十秒、最大でも数分しか持たない。重要な記憶なら、何度もアクセスがあるため、そのたびごとに扁桃体で再生され、再評価を受ける。そうするうちに、記憶の固定が起こり、長期記憶として、大脳皮質に収納される。空間感覚情報は頭頂連合野、色や形の情報は側頭連合野というように、実際に使われる場所に固定される。記憶固定には海馬と扁桃体が関係する。一方、短期記憶の再生が行われなければ、不要な記憶として消去(忘却)されてしまう。
4. 特別な思い出=記憶の固定が行われるコアメモリ
映画の中で「特別な思い出」として大切に扱われていたオーブ。ヨロコビが司令部の外に放り出されても最後まで離さず守り抜いた記憶。これはまさに長期記憶に移行しようとしていた固定前の重要な情動を伴った短期記憶と思われる。
これらは情動のコアメモリとして、性格形成に重要な影響があると考えられる。
(以下、本編の重要部分のネタバレ+脳科学的解説)
5. ライリーの個性を反映する5つの島(islands;家族の島、友情の島、ホッケーの島、正直の島、おふざけの島)=大脳皮質の島皮質?
映画に描かれているような、具体的なテーマごとに神経細胞が群をなしている「島」構造は知られていないが、大脳皮質の一領域、外側溝の奥に位置する「島皮質(とうひしつ;insular cortex)」は、身体表象や主観的感情の自己認識、他者の痛みへの共感などに関わる領域であり、扁桃体との強い繋がりが見られる。
個性の形成メカニズムについて、現状、脳科学では十分理解されていないが、島皮質と扁桃体、および大脳皮質の関係する領域(ホッケーなら運動連合野のように)との連携によって成立している可能性が考えられる。
6. 夢の制作スタジオ
いかにもディズニーらしい設定だが、実際の夢は台本通りに進行するわけではなく、外部環境や偶発的事象によって変幻自在であり、様々な神経細胞の興奮のリレーで、いわば台本のない前衛芸術的ドラマとして演じられているようだ。
7. 記憶との別れ=記憶の消去
ある記憶が夢を託しつつ消えてゆく、本作で最も切ない情動を禁じ得ない場面。
8. そもそも、悲しみが特別の思い出に触れた(事件の発端)理由
なぜだか今日に限り、触ってはいけないと思いつつも、楽しかった思い出に触れずにはいられなかったカナシミ。
ライリーの不安な心情を察知したカナシミが、喜びの記憶のかげに「封印された悲しみ」を開放する衝動に駆られたのだろうか。
悲しみを受け入れることで初めて悲しみを乗り越えられる。
カナシミは、そのことを知っていた。
自分の悲しみに向き合い、受け入れることで心を強くすることができ、他者の悲しみを理解し、寄り添うことで、分かち合い、分かり合うことができる。
(それがカナシミの本当の役割)
人生を支える多くの思い出自体も、それぞれの情動を携えながら、あるものは記憶に留まり、あるものは忘れ去られて消えて行く。
消えてもなお、他の思い出の中に、受け継がれる思いもあるのだろうか。
映画『インサイド・ヘッド』は7月18日(土)全国ロードショー。